コンテンツへスキップ →

原稿用紙

 小学校の教師をしながら、私は密かに作家として名を馳せていた。ペンネームで書いているので、教え子や同僚の教師達は、私が作家であることを知らない。だが、最近はさっぱり筆が進まない。原稿用紙に向かっても、何もアイデアが浮かんでこないのだ。白い原稿用紙の束を前にして、私は頭を抱えていた。
「テーマはお任せします。六月末迄に800枚」
「先生の小説なら、どんなジャンルでもヒット間違いなしです」
 担当編集がそう言ってくれるのは嬉しいことだが、いかんともしがたい。白い原稿用紙の束を前に、頭を抱える日々であった。

 締め切り迄に日がない。気晴らしにテレビを見ていると、『4分33秒』というタイトルの、無音の楽曲が存在することを知った。著作権もあるらしい。
 私は一枚の原稿用紙に、『八百枚』と記し、799枚の白紙の原稿用紙と共に担当編集に渡した。
「出版時期を延ばしますから、先生、お願いしますよ」
「いや、これは私の遺作となる作品だ。これが最後の小説だ。出版しないなら、捨ててくれ」
 そう言い放ち、私は作家を引退した。

 驚いたことに、『八百枚』は出版された。ページ数だけが打たれた真っ白な本が、平積みで書店に並んだのである。物珍しさで買っていくのか、日記帳代わりなのか、結構な売れ行きである。
 おかしな社会現象として、世間の話題をさらった。仕掛け人を、文化人や他の作家から予想する者も多かったが、そのペンネームの作家が、スランプで書けずに物書きを引退した小学校教師であるとは、誰も思い至ることはなかった。

 その年の九月、夏休みが明けて、私は再び白い原稿用紙の束を前に頭を抱えた。教え子全員が、同じ本の読書感想文を書いてきたのだ。

カテゴリー: 超短編小説

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です